エッセイ

マーマレードスタイル バイク乗り、単車乗り ロングライダース
危険考 RAZORS EDGE  

 

マーマレードスタイル

 

単車があって、俺がいる。

 

なければ生きられないとは言わないが、生きている意味の半分は失われる。

人生に潤いと活力を与えてくれる、最高に楽しいツール。

まあ、相棒ってとこか。

 

そうでないヤツがどうとか、同じようなヤツがどうとか、正直、そんなことに興味はない。

単車など、乗ろうが、降りようが、そしてまた乗ろうが、自分で決めればいいことだ。

走ってくれるヤツがいるなら一緒に走ればいい。誰もいなくなるのなら、独りで乗ればいい。

 

ダチと、他のダチに会うために走り、大勢で呑んで騒ぐ。

ひとり、誰もいないところまで走り、満天の星を抱きしめる。

同じくらい大切な時間だ。

 

 

幸いにして俺のダチは、みな成熟した一匹のオス、あるいはメスだ。

てめえひとりで、誰にも寄りかからずに生きていける、自立した人間たちだ。

仲間だなんだ、どっかの鬱陶しい集団のように、うるさい奴はいない。

 

もちろん会えば楽しいし、飲んだくれて騒いだり、バカみたいに走りまくったりはする。

だが、そこに依存はない。

何をしようと責任はすべて、てめえ自身。

 

それは、たまらなく居心地がいい。

 

 

俺がしんどいときには、俺を放って勝手に遊んでるだろう。

それぞれにやりたい事を、やりたいようにやってるだろう。

俺のことなんて、忘れたみたいにバカ騒ぎしてるだろう。

 

そして俺が元気を取り戻したら、にやりと笑って杯を差し出す。

ゲラゲラ笑って、凹んでた俺の姿を茶化す。

そんなのが、すげえ好きだ。

 

もしかしたら、いきなり連絡を取れなくなるかもしれない。

突然、俺の前から消えてしまって、それきり、二度と会わないかも知れない。

会えないかも知れない。

 

だが、それでいい。

会えたらまた呑むなり喋るだろうし、会えなきゃ思い出で語るだろう。

 

 

俺は俺で生きて、ダチどもはダチどもでそれぞれ生きて。

その上で、交錯したこの一瞬を楽しむ。

俺のヒトとの付き合いかた、言わばマーマレードスタイルだ。

 

「俺たちは仲間だ!」てなことは言わない。

もともと、そんなクソったれでメンドウな「仲間」なんてもんじゃない。

群れて、寄り添って、馴れ合うだけの、鬱陶しいコミューンは要らない。

 

 

お互い寄りかからず、まっすぐに立って。

自分の行きたい方に歩きながら。

交錯したり、併走したり、離れたり。

 

拘束も干渉もない、集団ではない個々が。

偶然、近づいた一瞬。

その一瞬がこのサイトであり、俺の走る意味だと思っている。

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バイク乗り、単車乗り

「俺はバイク乗りだ!」

と言う、ひとつのキーワードがある。

10代から20代のころ、俺はこの言葉を、誇りとともによく叫んだ。当時の俺は、『バイク乗り』で、『ハードロッカー』で、『大酒のみ』で……つまりアウトロー(笑)だったわけだ。俺の中で、「男とはこうあるべき」と言う確固たるビジョンがあって、そこを目指して、色々やってたんだよね。

自分がどれほどの男かをよく考えてだなあ……
それからどんな男になりたいのか良く考える……
あとはそのギャップをどうやってなくすか……だよな……

東元昌平著「キリン」より抜粋

この言葉にいたく感動し 、そのとおり実践してた。

自分を曲げず、言いたいコトを、言いたい時に、言いたいように言うために、そのときの俺が考えられる限りの努力をした。暴力に屈しないための腕っぷし。言い負けないための知識と口先。理不尽に頭を下げないための職業選択、その他もろもろ。

今、俺が手にしているモノはほぼ、そんな風に身に付けられた。

19で一人暮らしを始めて、出来る限り誰にも頼らず生きていこうと思ってたし、事実、そのとおりに生きてるつもりだった。親に援助してもらうなんて言語道断。仕送りもらってる友達をバカにし、金がないのを誇りにしてた。親に頼ることは『負け』であり、『情けないコト』だった。

その歳まで育ててもらったことを、すっかり忘れてるんだから手におえない。

 

そんな考え方をしている俺にとって、『バイク乗りの世界』ってのは、すごく魅力的だった。

「オトコ」「バイク乗り」「人生」など、当時の俺にはたまらない、魅力的なキーワードがポンポン飛び交う世界。思いを真剣に語ろうとすると、「語ってるよ」だの「熱いねぇ」などとチャカされる風潮の中にあって、同じくらい熱っぽく自分を語ってくれる、『仲間』がいる世界。

ハマるのも、無理ないだろう?

もちろん、こういう世界を否定する気は ないし、今でも嫌いじゃない。

だが、10年以上もその世界にいると、だんだんと、いろいろなものが見えてくる。要するに、『結局、ここもパラダイスではなかった』と言うわけだ。熱い人間の比率が多いのは事実なんだけど、当たり前のことながら、やっぱりどうしようもないのが中にはいる。

「おめぇに、バイク乗る資格はねぇ」なんてよく言ってたよ、当時の俺は。

今なら、「え? 免許証? 持ってるよ」とか返しちゃうんだろうなぁ。

 

どうしようもないヤツがいるのは、どの世界もいっしょ。どんなコミュニティでもバカはいる。

こんな単純なことに気づくまでに、ずいぶんと時間がかかった。そして同時に、「見方を変えれば、俺のほうがどうしようもない」って事にも気づく。社会を否定しながら、小さな小さなコミューンに引きこもり、その中で『バイク乗り』というレッテルを貼って、喜んで……

そう。

否定したはずの社会の縮図の中で、俺は一生懸命に、『出世』を目指していたのだ。

どうしようもない、どころか、その時の基準では「最低のヤロウ」だったのである。

さあ大変! 今までの人生が否定される!

 

それから先は、何をどうしていいのか……

あれだけ満々だった『バイク乗り』である俺の『自信』は、どっかに行ってしまった。

そしてそんな時、格闘技も、音楽も、本も、そしてもちろん、単車も。

俺が好きだったもの全ては、しかし、決して俺を助けてはくれなかった。

 

あたりまえだ。

社会での位置ではなく、小さな群れでの位置でもなく、てめぇ自身の価値に胸を張る。その自信を得るために、醜態さらしても、何度間違った選択をしても、何度でも立ち上がり、自分を奮い立たせて、生き続けなくちゃならない。

このことに気づくまで、何年かかったっけ……つい最近のような気もする。

しかも、未だに実践できてない。

ただ、そうありたいと思うばかりだ。

 

それでも、そう思えるようになって気づいたことがある。

俺は、自分であれだけ嫌ってた『マニュアル人間』だったって事だ。ポリシーなんて言えばカッコいいけど、他人(事態)に対する態度やセリフ(対応)が決まってるんだから、これはもう立派にマニュアルだ。嫌いだった 『頭の固いトシヨリ』と、やってる事や頭の固さが変わらないのだ。

自分のダブルスタンダードさ、醜さに気づき、ゾッとしたのを覚えている。

 

もっと柔軟に。

そう思うようになって、他人に対する度量は広がったと思う。

患者のじーちゃんばーちゃんと、ケンカしたりバカ話ができるくらい仲良くなれた。誰とでも話せるようになったし、自分でヲタクと言い切るヤツから、スジモンすれすれみたいなヤツまで、頑(かたく)ななバイク乗りでい続けたら、きっと会えなかった奴らとも、逢うことが出来た。

でも逆に、バイク乗りだったからこそ、今の俺がいるってのは紛れもない事実。

「バイク乗りだ!」

と、リキんでたあの頃があったからこそ、今こうして、色々な人と楽しく笑いあえ、穏やかな関係を築けてるんだと思う。もっとも今は、リキんでたあのころへの決別の意味もこめて、『バイク乗り』という言葉は、あまり使わなくなった。

そういったわけで……

 

俺は単車乗りだ。

死ぬ寸前まで、単車乗りでいてやるのだ。

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ロングライダース

ロングライダースという言葉を知っているだろうか?

端的に言えば、『単車に乗りつづけてる人』の事だ。

何がカッコいいって、これが一番カッコいい。単車に乗るとき一番大切なこと。絶対に生きて帰る。これを実践しつづけて、いい年になったおっさんたちがいるってのは、むちゃくちゃカッコよくないか? 俺はこういう連中の話を、聞いたり読んだりするたびに、たまらなく憧れてしまうのだが。

 

ひたすら単車に乗りつづける。

余計なことは言わず、周りに何と言われても、この危険な乗り物に乗りつづける。

誰かが降りるのを黙って見送る。あるいは誰かの死を、悔しさをかみ締めながら見送る。

乗り続け、生き続ける。

 

語るべき想いがなくて、寡黙なのではなく。

対立を恐れて、寡黙なのではなく。

語り尽くせぬ思いが多すぎて。それを上手いこと表現するには、言葉と言うのはあまりに貧弱で。伝えるからには全てを伝えたいけど、それは不可能で。なにより、自分の大切な思いを、勝手に簡略化され、安易にカテゴライズされることに、どうしても耐えられなくて。

だから……単車乗りは黙り込むのだ。

 

しかし、俺はよく喋る。そして、語る。

乗らない人間に、わかって欲しいのではない。乗ってる人間と、馴れ合いの閉じた世界を作りたいのでもない。単車が素晴らしいなどと、世界に向かって身ほど知らずに叫びたいわけでもない。俺を認めてくれと、言いたいわけでもない。

「俺は単車に乗るために、生まれてきた」

これを伝えたいのだ。

理解や援助を求めるためでなく、ただ、干渉して欲しくないがために。

 

命を賭けて乗る物だから。

しかしその、何より大切な物を乗せて走るには、あまりに不安定な乗り物だから。その不安定さに比べ、あまりに速い乗り物だから。またがる瞬間、死ぬかもしれないと思うような、文明社会にあるまじき熱く野蛮な乗り物だから。だからこそ惹かれるのだ。

生きて帰ること。この大切さは、身をもって知っている。

それでも、俺は単車に乗りつづける。

今まで何とか生き延びて。少しだけ見えてきたものがある。命を危険にさらしてまで、乗ることの意味。上手く言葉に出来ないけれど、乗り続ければ、生き続ければ、いずれはすべて見えるような気もする。ずっと手が届かない答えのような気もする。

 

「答えを探しつづけて生きている」なんて言えるほど、俺は人生を真剣に生きていない。

でも、単車に乗っているときだけは、いつだって真剣だ。

真剣じゃないと死ぬから。

 

死。

 

漂うような日常の中で、単車に乗っている瞬間だけは、心の片隅に死を意識する。

『なぜ、そんな危険な物に乗るのだ』という、単車乗りへの永遠の命題に対して、「単車に乗るために生まれてきた」とほざいておきながら、俺はまだ、明確な答えのカケラにさえ届いていない。悪戯に年齢ばかり重ねて、このまま一生、答えは出ないかも知れない。

それとも、いつかこの手は届くのだろうか?

 

わからないけど、とにかく、死なない間は、生きていようと思う。

生きてる間は走ろうと思う。

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危険考

危険について考えてみた。

世の中にはいろんな危険があるけれど、俺が語るのだから、当然、単車の話だ。

 

単車ってのは危険である。なんたって自立できないんだから。

そしてエンジンパワーに比して、車重が軽すぎる=動力性能が高い。高速に限ったって、最近の単車なら性能的には、路上の90%の車を凌駕する。乗り手によって引き出せる性能に幅があるけど、それでも普通のライダーが乗った1000ccの単車は、たいていのクルマより速い。

もちろん、一部特殊な世界になれば別だが。

さらに雨が降れば転びやすいし、ぶつかれば軽自動車にも勝てないわけで、そんな誰にでもわかりやすい危険性から、真否はともかく、非常に語りやすく、かつ大人数を納得させやすい式が作られる。単車=危険と言う、反吐が出るほどありふれた言い分だ。

だが俺は、ココであえて単車に乗らない者とコトを構える気はない。

むしろ今から語りたいのは、「単車に乗る者へ」なのだ。乗っているにもかかわらず、いや、乗ってるからこそ、時々、俺の神経を逆なでする人間がいるのである。彼らは己の経験に基づいた安全基準を持っている。そして、その基準から外れたものを、安易に『危険だ』と断定する。

むしろ乗らないヒトは、単車は全て危険と思っている分だけ、ある意味公平だ。

 

そりゃぁ何年も乗ってきて、経験値はあるだろう。

俺より長く乗ってるヒトも、俺より上手い人も、もちろんたくさんいる。

だが、しかしだ。

そういったヒトのなかにも、頭が硬いと言うか、己の経験値に絶対の自信を持っているヒトがいて、ものすごく簡単に『俺は安全だけど、おまえは危ない』と言うようなことを語る。

おいおい、バカ言っちゃいけない。その基準はアンタが『自分の経験で導き出したもの』だろうが、それがなぜ、絶対的に正しいと言えるのだ? そう反論しようものなら、彼らはさも当然のように、いくつもの陳腐で聞き慣れたフレーズを並べる。一度くらい、聞かされたことがあるだろう?

しかしそれらの意見に、俺は、素直にうなづくことができない。

 

思い出して欲しい。

初めて単車に乗った時のことを。初めて単車に乗って公道を走り出したとき、ほとんどの人間が数時間のうちに、その大きさは問わないが、なにかしらの恐怖を感じたはずだ。クルマに乗るヒトなら多分、クルマ以上に恐怖を感じたと思う。

それはなぜか? 単車ってのが、基本的に危険な乗り物だからだ。

それでも、危険だが楽しい、この稀有な乗り物は、やがて乗り手を魅了して離さなくなる。そして長く乗るうちに、色んなことを覚える。危険を偶然に回避しながら、偶然生き残るうちに、経験をつんで危険を予測するようになるのだ。

そう、慣れただけなのだ。

問題なのは、『生き残っている』と言う事実を根拠に安全だと言う、その一点である。

 

原付だってコケりゃ怪我するし、場合によっては死ぬ。単車に乗るってコトは、排気量や速度に関係なく、死と隣り合わせなのだ。厳密には時速15キロとかそのくらいなら、もしかしたら死なないかもしれないけど、そんな非現実的な話は語らなくていいだろう?

実際問題、原付で出せる60キロってのは、すでに大怪我したり死ぬ速度だ。

ただ、単車乗りは技術を身につけ、経験によってケーススタディをし、事故や死の確率を下げているだけなのだ。なのに、そのことを忘れて、『ぶっ飛ばすのは危ないけど、私のように法定速度を守っていれば安全』なんてのはもう、ちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。

60キロで走ってると安全で、100キロだと危険。

200キロはもっと危険で、300キロなどとんでもない。

本当か?

 

物理的に人間がこなしうる反射速度や反応速度というものは確かにある。

だが、それを差っぴいても、いつ何が起こるかわからない公道において、60キロでぼーっと走ってるのと、200キロで集中しながら走ってることに、「そこまで差異があるか?」と問われれば、俺は自信を持って「否」と言える。

そりゃ、60キロで集中しながら走ってるなら、それがイチバン安全かもしれないが、冷静に考えて、『60キロで緊張しながら走ってる』ヒトは、全体の10%を切るだろう。

そして、60キロで何かあったら、人は充分に死ねるのだ。

逆に絶対速度ではなく、慣れている速度は安全で、慣れていない速度が危険なのなら、初めての原付で30キロで走る方が、いつも200キロで走るような人間が100キロで走るより危険だと言うことになる。彼は100キロの倍の速度にさえ、慣れているのだから。

 

マシンがどうのとか、速度がどうのと言うことに、実はあまり意味なんてないのだ。

危険を語るなら、むしろ操る側の心構えが大切なんだと思う。

極端な話イチバン危険なのは、俺やウチに出入りする連中のように、乗り倒してる人間だ。乗る機会、乗る時間が増えれば、それだけ単車で危険な目に合う可能性は、確率的に言えば非常に高まる。それはもう、動かしようのない事実だろう。

それがイヤなら、乗らなければいい。それが間違いなく、イチバン安全だ。

だから乗らないヒトには何も言う気はないけれど、乗っているなら、誰かの行為を危険だと説教する前に、もう一度、自分がいかに危険な乗り物に乗っているかを自覚した方が有意義だ。限界を超えないとか、集中力が切れたら乗らないとか、その方がずっと大事だ。

 

危険だと説教する人間は、でも、路上では助けてくれない。

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RAZORS EDGE

首都高で飛び、肋骨を4本と鎖骨を折り、肺を片方つぶした。

退院後、家で養生しつつ、サイト上で色々候補を挙げ、次の単車を探す。

やがて身体も回復し、仕事をし始めた。

 

そんなある日、仕事して家に帰ってから、いつものように頭と身体を洗って、風呂桶に浸かった途端、すぅっと抜けたものがある。自分でも意識してなかったと言うか、意識してたとしてもあえて黙殺していた感情だ。ガキのころからなじみのある感情。

恐怖だ。

 

なぜ、暇だとは言え何日もかけていろんな単車を候補に上げて考えたのか。

やたらと『ほぼ確定』なんて言いながら、その割りに他の単車へ色気を見せていたのか。

単車が好きで、色々なのに乗ってみたいという気持ちはもちろんある。

 

だが。

 

一番の理由は、どうやら恐怖だったようだ。

痛みと言う、神経が与える原始的な強い刺激による恐怖の記憶。自分が乗っていた単車がコントロールできなくなるときの、単車乗りとしてのイチバン強く原始的な恐怖。ふたつの記憶が俺の中で組み合わさって、神経を蝕んでいたのだ。

そう、俺は自分でも気づかないうちに、事故でビビっていたのである。

 

 

身体を起こすことさえままならない入院生活。動くたびにきしむ身体を襲う痛み。

俺は単車が好きだし、事故ったのも初めてじゃない。そのたびに何の疑いもなく、当然のように単車に乗ってきた。そして今回も、もちろんそのつもりだった。ところが老いたのだろうか、俺の心の奥底には、今までにない恐怖が根付いていたらしい。

それでも単車に乗らないなんてありえないし、理性の部分ではSSに乗る気満々だったから、R1000を選ぶことに何の疑いもなかった。そこでビビってた俺の無意識は、理論的に受け入れやすいよう『いろんな可能性を考える』などと言い出したのだ。

俺にまったく気づかせないままに。

 

 

ところが、仕事を始めて単車に乗り始めると、俺の根本である『単車に乗るために生まれてきた』と言い切らせる何かが、蠢動してきたようだ。更に仕事を無理にでもやることで、運動療法的に身体のこわばりが取れてきた。同時に、心のこわばりも取れたようだ。

今日、風呂に入った瞬間、俺の精神は単車を運転していた。

その単車は、とても軽く、恐ろしいほどのパワーを秘めている。だが、自分がビビっていたことに気づいた俺には、逆にそのパワーは怖くなかった。湯船に浸かって目を閉じた俺は、路面に吸い付くようにビタっと安定したまま、とてつもない速度でコーナリングした。

快感だった。

 

その瞬間、ダチのキャスタの言った言葉が思い浮かぶ。

『カミソリの刃を立てて、切り裂くようにコーナリングしてゆく感覚』

それが俺にも感じられた。その姿が見えた。ハヤブサで高速コーナーをコーナリングする快感を感じながら走っていたとき、俺のミラーに映っていた姿。ハヤブサを上回るコーナリングをするマシンたちの姿。腕の差だとわかっていながら、それでも俺を魅了する姿。

 

レイザーズエッジ。

 

カミソリの刃の様に道路を切り裂くマシンと、それらの描く美しい軌跡。俺の心の中には、もうすでにそいつが棲んでいて、ビビった俺が早いところ自分の恐怖に気づき、乗り越えてやってくるのを待っていた。少なくとも俺にはそう感じられた瞬間だった。

 

 

風呂から上がり、『気づけてよかった』と胸をなでおろしながら、ため息を吐き出す。

気づいてしまえばこっちのものだ。乗って走り出せば、恐怖より楽しさが上回ることを、俺はもう、充分すぎるほど知っている。知っているからこそ、「まさか」と言う思いがあり、自分自身の恐怖に気づけなかったのだ。まったく、ヒトの心ってのは、複雑なものだ。

もう、迷いはない。

もちろん、いろんな単車に乗ってみたい気持ちはあるが、全てはこのあとだ。

 

レイザーズエッジ。

 

これが俺の、新たに歩みだす道だ。

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